・・・・・鹿沼市の風景・・・・・ |
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加園(かぞの) |
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▼加園には加蘇コミュニティセンター、加蘇中学校、加園小学校、お寺は興源寺があります。▼なぜ加園中学校でなく加蘇中学校なのか「少年少女のための鹿沼の町名」を見てわかったような気がします。加蘇という名前を残したいのでしょう。▼加蘇で最初に思い出すのは加蘇山神社です。
▼加園の名前の由来ですが、
▼「少年少女のための鹿沼の町名」 黒川常幸氏発行本によると・・・
もとは加蘇野(かぞの)となづけられていたものが、よい文字2字に書きあらためるときに加園になったのではないかといわれています。加蘇野は「カゾ」の野で、カゾというのは楮(こうぞ)のことです。むかし、このあたりで紙つくりが行われていました。その原料としての楮がいっぱい生えていたようです。それが地名のもとになったのではないかといわています。楮はカミソ(紙麻)からかわったことばで、クワ科の葉のおちる木です。高さが3mにもなります。葉の形は桑ににていて、6月ごろ、あわいきみどり色の花をつけます。和紙(日本紙)の原料としてその皮が今でもつかわれています。 |
加園小学校の画像です。 |
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むかしの下加園村
「鹿沼市史資料編 近世1」参考
下加園村
川上は上加園村と接し、東は下日向村、南は野尻村に接する。「慶安郷帳」では田180石余・畑18石余、他に興源寺領7石とある。
興源寺の薬師如来像の銘に貞和5年(1349)「賀園郷」とある。興源寺は山号満目山、曹洞宗(本尊正観音)で宝徳2年(1450)の創建と伝える。元禄9年火災により焼失、その後現在地にうつる。
下加園村の概要
山あいを流れる荒井川にそって開けた畑作優位の村で、中世には上加園村とあわせて賀薗郷と称された。
近世に入ると、当初は幕府領であったが、慶安2年(1649)に鹿沼藩領、享保9年(1724)に鹿沼藩主内田氏が下総小見川藩に転封したのちも同氏の支配を受け、天保9年(1838)に一時幕府領となり、天保11年(1840)に幕府領と吹上藩領となり明治維新を迎えた。
「元禄郷帳」による石高は612石余。戦国期に築城された加園城のあった竜ケ谷山から石灰石が掘り出され、江戸時代を通じて、石灰石を焼き上げた石灰の生産が村にとって重要な生業の一つであった。
むかしの上加園村
「鹿沼市史資料編 近世1」参考
上加園村
村の中央を荒井川が流れる。川上は下久我村、川下は下加園村。永禄元年(1558)城主渡辺右衛門尉が神園神社を修理して別当宝蔵院を建てた。「慶安郷帳」では田124石余・畑289石余とある。
上加園村の概要
山あいを流れる荒井川にそって開けた畑作優位の村で、中世には賀薗郷と称された。
近世に入ると、当初は幕府領であったが、慶安2年(1649)に鹿沼藩領、享保9年(1724)に鹿沼藩主内田氏が下総小見川藩に転封したのちも同氏の支配を受け、天保9年(1838)に一時幕府領となり、天保11年(1840)に幕府領と吹上藩領の相給村となった。
このときの知行分けは集落単位にされた形跡が認められる。「元禄郷帳」による石高は413石余。
参考
慶安郷帳 1648年
元禄郷帳 1701年
天保郷帳 1834年
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