・・・・・鹿沼市の風景・・・・・
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   鹿沼市の町の風景 26.1.19    11
今宮町(いまみやちょう)
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▼今宮町には、鹿沼市役所、御殿山公園、中央小学校、栃木県の出先機関、御殿山病院、今宮神社があります。▼桜・紅葉時は御殿山公園へ、鹿沼彫刻屋台祭の際は今宮神社へと、足を踏み入れることが多い町内です。
▼今宮町の名前の由来ですが、
▼「少年少女のための鹿沼の町名」 黒川常幸氏発行本によると・・・
町の中に今宮神社があることから、今宮町と名づけられました。
今宮神社
▼はじめにまつられたのは、奈良時代の延暦元年(782)だといわれています。▼江戸時代の天文3年(1534※織田信長が生まれた年なので戦国時代)鹿沼城を築いた壬生綱房(みぶつなふさ)は、城の守り神としてそれまで御所森(ごしょのもり:北小学校の北にある)にあった神社を今の場所にうつしました。▼そして今宮大権現と呼ぶことにしました。▼今宮というのは、神様を分けてまつった神社、新しい神社という意味です。
▼権現というのは神様を尊んでいうことで、仏教での仏とか菩薩にあたります。▼お祭りは、はじめ3月と9月だったようです。それが、6月20日と9月9日にかわります。▼3月が6月にかわったわけが「押原推移録(おしはらすいいろく)」に書かれています。

▼「慶長13年(1608)の夏、日照りがつづいて、鹿沼あたりの稲の苗がかれそうになりました。人びとはこまって、今宮の神様に「雨をふらしてほしい」と3日間、お願いしつづけました。すると、雷がなり、大雨がふり、田んぼの稲は生きかえりました。人びとは神様のおかげだと喜びあいました。6月20日のことでした。このことがあってから3月のお祭りをこの日になおしたということです。」
▼昭和23年10月10日、鹿沼が市になったことを祝うお祭りに、今宮神社のお祭りもいっしょにおこなったことから、その後は、10月9日、10日が今宮神社のお祭りの日にもなりました。今宮神社の表門と銅の鰐口は県の重要文化財になっています。
今宮神社参道で行われたお囃子会競演の画像です。
■「かぬま郷土史散歩 柳田芳男氏 著」 参考
●今宮神社
今宮神社の参道は長い。その入り口は麻苧町通りだから、400m近い。昔は参道の両側は杉並木で、堀と土手があり、今宮馬場と称した。天文元年(1532)壬生綱房が現在の御殿山である坂田山に城を築き、同3年に御所の森(現北小学校裏庭)にあった日光二荒神を城内(現在地)に移し、今宮権現と称して城の鎮守とした。近世には、徳川幕府から朱印高50石を受け、鹿沼宿の氏神として崇敬された。明治5年に郷社に、昭和6年に県社になっている。

●忠霊塔
昭和33年に建設された。第二次世界大戦により戦死した二千五百余柱の英霊がまつられている。

■上都賀郡誌 復刻版(発行 昭和52年8月30日)参考
今宮神社(県社)
創立年代不詳といえども、往古は字御所の森に鎮座し、鎌倉幕府時代には鹿沼六十六郷の総鎮守として大いに神威を輝かし、天文元年(1532)壬生下総守綱房、坂田山に築城するや同三年(1534)御所の森より現在の地に奉遷し今宮大権現と称し当城の鎮守として、けい田五十石を附し社家別当神宮寺を置く。徳川幕府に至り更に御朱印御注文を交付する。
■むかしの押原村    
「鹿沼市史資料編 近世2」参考

●押原村(鹿沼宿)
天文元年(1532)に壬生氏の築城により城下町となり、また壬生氏と日光山との深いかかわりから今宮権現が勧請され今宮神社が建造された。天正18年(1590)壬生氏の滅亡後はその機能を失ったが、江戸時代に入って徳川家康の日光廟の造営とともに御社参の街道の宿場町として町割りがなされ、元和3年(1617)家康の遺骸が薬王寺を経て日光廟に祭祀されてより、宿場として繁栄するとともに地域の産業・経済・文化の中心部となった。
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宿場には南北に二筋の街道が通り、田町・内町があり、田町・内町それぞれ東・西に別れ、名主・問屋が置かれた。また両者の東側を合わせて押原東町、西側を合わせて押原西町と称し、元和3年(1617)東町・西町に分け二給支配、享保10年(1725)両町同支配、安永4年(1775)より宇都宮藩領となった。「慶安郷帳」には二筆で記載される。一筆は512石余(田244石余・畑268石余)、一筆は473石余(田228石余・畑245石余)、ほかに朱印地が今宮権現50石・宝蔵寺10石・薬王寺10石や寺社の除地があった。慶安2年(1649)以降の村高は、東町964石余、西町719石余であった。
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このように村内が東町と西町にわけられ、異なる領主によって支配されることとなった。街道筋に当たり、問屋は交通・運輸に携わり、大通行の時には助郷村の人馬の差配に当たった。鹿沼宿の宝永7年(1710)の助郷は西鹿沼村など二二か村勤高一万二二九六石であった。また公用の本陣や脇本陣があり、旅籠屋も増加して賑わった。
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交通量の増加とともに往還筋にある内町が発展し、古来の四・九の市日も繁昌するようになったが、市日以外の商いも盛んとなり、田町と内町の間で販売商品をめぐって幕末まで激しい争論が続いた。天保9年(1838)には家数738軒・人数2851人とあり、同14年(1843)には酒造10・穀屋13・麻24・荒物22・大工22・茶屋26・旅籠屋20をかぞえ、また大麻や木材などの特産物を介して江戸や房総などと商取り引きや交流も盛んになり、生活・文化も向上し、今宮神社の祭礼には豪華な彫刻をもつ屋台が出現して踊り・狂言が催された。また鈴木石橋により私塾「麗沢の舎(りたくのや)」がひらかれるなど、地域の産業・経済・文化の中心地となった。
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●押原村の概要
押原村(鹿沼宿)は、北を武子村・玉田村、南を上殿村、東を下府所村・茂呂村、西を西鹿沼村・花岡村などに接していた。天正18年(1590)、壬生氏が改易すると、結城氏や大河内代官の支配を経て、慶長15年(1610)に御書院番頭阿部正次(備中守)に支配された。元和3年(1617)正次が上総大多喜へ転封、この頃、押原村は押原西町と押原東町に分郷された。東町は、主として阿部氏や幕府が支配したのに対し、西町は、井上・朽木・内田といった大名の支配が享保10年(1725)まで続いた。その後、50年間、幕府領となり、戸田氏の宇都宮藩領となってからは、幕末まで支配は変わらなかった。

参考
慶安郷帳  1648年
元禄郷帳  1701年
天保郷帳  1834年