・・・・・鹿沼市の風景・・・・・ |
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板荷(いたが) |
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▼板荷は桜の時期、紅葉時期となんどとなく行っています。▼桜は板荷中学校のエドヒガン、せせらぎ公園の桜、白沢の観音桜等、沢山の桜を見ることが出来るところです。▼秋には黒川に架かる岩行橋、堂坂橋、日蔭橋からの紅葉もいいものです。▼建物は板荷中学校、板荷小学校、寺社では観音寺、日枝神社(アンバ様行事)があります。板荷地内から見える笹目倉山もいいですね。
▼板荷の名前の由来ですが、
▼「少年少女のための鹿沼の町名」 黒川常幸氏発行本によると・・・
明治22年(1889)に町村制ができたとき、小来川(おころがわ)と合わさって、板来村(いたこむら)となったことがあります。板荷の「板」と小来川の「来}をあわせた名前です。しかし、明治26年(1893)にふたたび分かれて板荷村にもどりました。板荷はむかし深谷村(ふかやむら)といっていました。文字のとおり、深い谷のところにある村という意味でしょう。板荷という地名は木材の集まっているところからできたという説があります。・・・
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■むかしの板荷村
「鹿沼市史資料編 近世1」参考
●板荷村
黒川上流の山間に位置する。日光往古社領六十六郷の一つに板荷郷がある。慶長17年(1612)の醍醐寺文書には
観音寺・薬定寺・遍照院の名がみえる。「慶安郷帳」では田46石余・畑954余(幕府領)ほかに薬定寺領が2石ある。朝鮮種人参の栽培がおこなわれ、寛政11年(1799)には御用作人13人を数える。翌年当村に朝鮮種人参中製法所が新設され、江戸の吹上人参役所のもとにおかれた。・・・途中省略・・・板荷には「板荷四十八鳥屋」(狩猟のための鷹を飼う施設)といわれる100間四方の鷹場が設けられた。元治元年(1864)の黒川からの引水開発計画は、慶応2年(1866)に許可されて翌年完成、堀は開削を担当した代官山内源七郎の手代吉良八郎の名をとって吉良堀と名づけられた。
●板荷村の概要
板荷の草分の百姓は33軒あって、特に「元祖の草分」と呼ばれた8軒が大鹿嶋に居住した。33軒は名主や組頭といった村役人を出すなど格式が高く、特権的な祭祀集団でもある宮座も組織していた。村内は、地縁的結合によって大原・岩行・唐沢・左汰野目・堀之内・木曽・下板荷畑・上板荷畑・今里・長野原・大鹿嶋・白沢の12の組に分かれる一方、それらが結びついて上組・下組という二つの地域的まとまりを形成した。寛政4年(1792)の家数は378軒、人別は1410人を数えた。石高2238石余は、鹿沼の村では最大である。耕地は田方34石余に対して畑1767石余(寛政期)と畑方が圧倒的に優勢でわずかながら隣村の長畑村や下遠部村から入作する者がいた。特産物は朝鮮種人参と麻(大麻)があった。朝鮮種人参は、日光七里村で栽培した種子を試作的に蒔いたのが栽培のはじまりとされ、全村に及んだといわれる。寛政12年(1800)には、現在の板荷小学校付近に掘り取った人参を洗って半製品化する人参中製法所(人参役所)が設置された。
また、鹿沼麻と呼ばれる良質の麻が生産され、麻購入のため下仲買や仲買・在地問屋の活動が見られた。
鹿沼宿・栃木宿はもとより房総の九十九里方面へ麻商売に出る者もあった。村内の三か所に松御林、10か所に御鷹塒(塒=とや)が設けられていた。
鳥屋(とや)は、鷹の餌となる小鳥を捕獲するためのものもあって、俗に「板荷四十八とや」と呼ばれた。
寺社としては、字宮内に山王権現(日枝神社)、字森上に厳島大明神(厳島神社)、字堀の内に天神宮(天満宮)、字細内に真言宗観音寺、字高柴に真言宗薬定寺がある。天神宮の祭礼は、宮座が中心となり、強飯式が行われた。 |