・・・・・鹿沼市の風景・・・・・ |
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亀和田町(かめわだまち) |
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▼亀和田町は、国道293号線沿いにある町内です。西は小倉川が流れており、東側は北赤塚町に接しています。亀和田町の風景を見るかぎりにおいて、北の日光連山等の山々も小さく、西側の西方方面の山々も遠く小さくて特徴が感じられません。▼亀和田町は、平坦地の印象です。
■下の画像は用水路が出来たときの記念碑です。この記念碑には次のように刻まれています。
●小倉川沿岸用水幹線改良事業
竣功記念碑
栃木県知事 従四位・勲四等 半井清書
●碑文
下野国稲葉村地方は地味肥沃管内に冠たり然るに大正12年関東大震災以降唯一の水源たる小倉川の水量著しく涸渇し稲葉村壬生町及南押原村に渉る水田587町歩は年々旱害(かんがい→ひでりのこと)を蒙り其の減収巨額関係町村の疲弊困憊見るに忍さるものあり滋(さんずいがない。)に於てか官民協力以て県営用水幹線改良事業を起■延長1000間の一大集水渠開鑿(しゅうすいきょかいさく?)の計畫(計画)を樹て事業費拾?五萬円を以て昭和6年3月28日起工し仝(どう→同)8年3月31日竣功したり今や湧水豊富如何なる旱魃(かんばつ)と雖も(いえども)用水不足の惨を免かれ(まぬがれ)農業の改良発展に資するところ亦大なるへく後世子々孫々其の恵■を享受するを得へし之れ則はち事業竣工に際し記念の為の此の碑を建つる所以(ゆえん)なり
上都賀郡南押原村・下都賀郡稲葉村 小籔耕地整理組合
栃木県耕地課長 山元昇 撰文
昭和8年5月
建碑寄贈者 工事請負人 田嶋組
同 日本ヒューム管株式会社
●正確ではありませんが、この様な内容です。碑文はカタカナになっていますが、読みにくいのでひらがなにしました。明治6年に栃木県が成立しているのに、昭和8年頃に下野国という名称を使っていたんですね。国道293号線を走っているときに、異様な建造物を何度となく見てはいましたが、今回見てきて納得しました。竣功・竣工と使い分けていますが、意味は同じだそうです。
▼亀和田町の名前の由来ですが、
▼「少年少女のための鹿沼の町名」 黒川常幸氏発行本によると・・・
亀和田町・大和田町
「わだ」には、曲がるところ、曲がって水がよどむところの意味があります。亀和田町の場合は小倉川をさし、大和田町の場合は黒川をさして、川の曲がったところなのでつけられたといわれています。大和田の場合は、大きくまがるという意味でしょうが、亀和田の場合の亀はよくわかりません。東北地方では、かめを川目とかいて、沢となって入りこんだものの一つ一つをいっているのですが、亀和田の場合、小藪川でもさしているのでしょうか。はっきりしたことはわかりません。
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↓小倉川(思川)から取水した用水路の竣工記念碑です |
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■むかしの亀和田村
「鹿沼市史資料編 近世2」参考
●亀和田村
西部で小藪川と思川(小倉川)が合流する水田稲作地帯である。地内に例幣使街道が通り、思川には仮土橋が架かる。正徳2年より幕末まで鳥居(壬生藩)領。天保年間の村高627石余・家数57軒、楡木宿の助郷村であった。
●亀和田村の概要
現鹿沼市の南端に位置する村で、南は七ツ石村(現壬生町域)。村の西を小倉川が南流し、近世期には対岸は金崎宿をはじめとする
西方郷であった。例幣使街道は金崎宿より当村に入り、当村内を北上して磯村を通り、楡木宿に至る。「慶安郷帳」には287石余、「元禄郷帳」には402石余が記載される。寛永16年(1639)には壬生藩領で、以後壬生藩領のまま幕末に至った。「天保郷帳」では627石余。寺社には日蓮宗顕照寺、大日堂、星宮、文明元年(1469)創建と伝える天満宮、ほかには河原坪によって祀られる稲荷社がある。明治初年、神仏分離により大日堂は神明宮と改称、村社となった。星宮も神仏分離により明治初年に磐裂根裂神社と改称した。
慶安郷帳 1648年
元禄郷帳 1701年
天保郷帳 1834年
一給支配=一村一領主、二給支配=一村二領主、三給支配=一村三領主というように旗本による分給支配地である。
相給=複数の領主下 |