・・・・・鹿沼市の風景・・・・・ |
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上殿町(かみどのまち) |
朝日町01
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草久29
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▼上殿町はかなり広範囲な町です。鹿沼警察署、鹿沼消防署、クリーセンター、市役所水道施設などの大きな役所があります。春は警察署前の桜並木がみごとです。桜の終わった頃にはハナミズキ通りに赤、ピンク、白のハナミズキも咲きとてもきれいです。また、上殿町から見える日光連山がいいと感じます。
▼上殿町の名前の由来ですが、
▼「少年少女のための鹿沼の町名」 黒川常幸氏発行本によると・・・
押原神社は平安時代の大同4年(809)今の栃木市のあたりから北の方を守る神としてまつられました。そこで押原神社ふきんを神さまのいるところ「かむどころ」から神殿(かんどの)というようになり、のちに神の字をさけて上の字をあて、上殿になったのではないかといわれています。 |
北押原の里めぐり・・・
村井町・・・上殿町・・・樅山町・・・塩山町・・・奈佐原町・・・日光奈良部町・・・下奈良部町・・・上奈良部町・・・みなみ町 |
警察署前から日光連山の画像です。 |
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■むかしの上殿村
「鹿沼市史資料編 近世2」参考
●上殿村
地内の東部寄りに黒川が南流して形成された沖積地で、黒川と灌漑用水とする水田稲作地帯である。
「慶安郷帳」には神殿村とあり、村高690石余(田300石余・畑389石余)元禄年間の村高1093石余、七給に分け郷となり、文化年間(1804〜17)六給となる。天保9年には家数50軒・人数264人・居酒屋3・むし菓子屋1・麻屋3・大工1とあり、鹿沼宿の助郷村であった。村には覚性院(廃寺)・押原神社・三日月神社がある。覚性院廃寺跡では安政年間(1854〜59)に寺子屋が開かれている。
押原神社は押原郷の総鎮守押原杉本大明神と称し尊崇されたことから神殿村と呼ばれるようになったと伝えられる。三日月神社はいぼ取りの神として信仰が篤い。
慶安郷帳 1648年
元禄郷帳 1701年
天保郷帳 1834年
一給支配=一村一領主、二給支配=一村二領主、三給支配=一村三領主というように旗本に
よる分給支配地である。
相給=複数の領主下 |
■説明板・・・内容がむずかしい。読めなかったり、意味が分からなかったりと苦労しました。
●押原神社の由来
祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)、相殿(あいどの:二つ以上の神を祀ること)天照皇大神(あまてらすすめおかみ:天照大神と同じ)、素盞嗚命(すさのおのみこと)、少名彦名命(すくなひこのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)なり。 本社は人皇第51代平城天皇 の御宇(ぎょ・う:帝王が天下を治めている期間)大同4年(809)9月19日の創建にて押原宗丸の勧請なり。
往古は押原の郷66村と稱せし(称する)が當(当)郷疫癘(えきれい:疫病のこと))に罹りて(かかりて)死する者多し、押原宗丸は大和国三輪大神を平素尊信す、或夜(あるよ)の夢に大神告げたまはく、我れを斉祀すれば疫癘(えきれい)熄む(やむ:止む)べしと忽ち(たちまち)覚む(さむ:覚めること)是に於て(ここにおいて)清浄の地を択び(えらび)臣杉(おみすぎ?)の下に霊祠を建て大物主命を奉斉す。疫病忽ち熄み(たちまちやみ)年穀(ねんこく?一年の穀物?)大に稔れり(実った)。
かくて押原郷の惣鎮守、押原杉本大明神と尊栄して宏壮(こうそう:広大でりっぱなこと)の社殿を建築せり。それより神殿村と稱へたるが後、上殿村と書くに至ったのは神と上との同訓により謬れるか(あやまられるか:間違われる)。 本社は黒川丹波守房朝崇敬の社なり。後天慶2年(1015)平将門 反叛(はんはん:謀反する)の時、平貞盛、藤原秀郷等が本社に戦勝を祈り速(すみやか)に追討して戦勝せしを以て、本社に弓箭鏡剣(弓・矢・鏡・剣)等を奉納せり。爾来、社賓たりしが惜しい哉、第92代伏見天皇 の正應5年(1292)8月回祿(かいろく:火事)の災いに罹り(かかり)社殿悉く烏有(ことごとくけう)に帰した。寛正4年(1463)9月川俣勘太夫に至り本社を再築せり。當明神は井戸を掘ることを嫌ひ給ひ貞享5年(1688)3月21日神祇官領長上ト部兼連に請うて神位宗源宣旨を以て正一位を賜はり、居民の安泰を祈りしより井戸を掘ること始まりしと云伝ふ。明治2年4月神祇官より押原神社と崇め奉る。因みに云ふ往古鹿沼神殿は一部落なりと又今の鹿沼高等学校の処に椎谷氏という豪家ありて神社辺迄土地を所有し神社の祭典には仝家よりの参拝を待ちて、後行(こうこう:あとから行くこと)へしとか口碑に残れり。 押原郷の部落を記せば
●鹿沼神殿(鹿沼)、田野(宇都宮)、栃久保(鹿沼市栃窪)、福岡(宇都宮)、玉田(鹿沼)、小代(今市)、小倉(今市)、室瀬(今市)、明神(今市)
長畑(今市)、板荷(鹿沼)、下遠部(鹿沼)、笹原田(鹿沼)、下澤(鹿沼)、深岩(鹿沼)、富岡(鹿沼)、古賀志(宇都宮)、
小林(今市)、岩林■(岩崎なら今市・岩原なら宇都宮)
手岡(今市)、板橋(今市)、大澤(今市)、八日市(今市)、柳戸(今市)、出道(今市木和田島出道)、猪倉(今市)、黄和田島(今市木和田島)、
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十々六(今市轟)、大室(今市)、、ヲドロ澤(今市荊沢:おとろざわ)、土澤(今市)、薄井澤(今市)、芹沼(今市)、
森友(今市)、武子(鹿沼)、見野(鹿沼)、文挟(今市)、大芦(鹿沼)、粕尾(粟野)、花園(宇都宮?加園であれば鹿沼)、日向(鹿沼)、茂呂(鹿沼)、
千渡(鹿沼)、荒針(宇都宮)、飯田(宇都宮)、
南摩(鹿沼)、栗野(粟野)、酒野谷(鹿沼)、村井(鹿沼)、樅山(鹿沼)、奈良部(鹿沼)、深津(鹿沼)、府所(鹿沼)、
西鹿沼(鹿沼)、花岡(鹿沼)、引田(鹿沼)、久我(鹿沼)、
昭和48年9月16日 吉日
古澤義雄 寄進・宇賀神廣作 謹書 |