明治二十二年の町村制施行によって北押原村と名付けられたこの村は、押原六十六郷のうちの一部でありましたので、
村名のそれによったものです。押原の押は大・広いという意味がありますから押原は広い野原とか、大野原のことをいったものです。
●村井は古くは村居といったようで、村居は村に居住してそこで農業に従ったことの意味です。田中は耕地が遠方なので、そこに小屋をつくって農業をしていましたが、定住するようになったので田中と呼ばれるようになったものです。この村には六つの井戸があったので、それによって村井と書き改めたと伝えられています。草分け六軒百姓(関口、加藤、金子、小田垣、石川氏の祖)と関係があるようです。
●段の浦、下並木
浦は畑のことで、段の浦は段々畑のことをいいます。下並木と書いて、シダミキと呼んでます。旧鹿沼地内に並木というところがあり、その南にシダミキの地名があります。これらのシダミキはシタナミキのなまったものです。
●城ノ内、五良
小藪川を渡ると右手に見える森は鎌倉権五郎をまつった五良神社で、この辺の小高い丘が古城跡といい、城ノ内(じょうのうち)と呼んでいます。一説には大門弥次郎の館跡ともいわれ、源義家が鎌倉権五郎に命じて、一夜にして築城せしめたとも伝えています。
●上殿、明神前
押原神社は古くは押原杉本大明神と称し、この地方の総鎮守であったということです。上殿の地名の由来は神田(しんでん)と神殿と書き、「かみどの」と呼んだのを、上殿と書き改めたと伝えています。神田は、神社の費用を弁ずるために設けられた田のことです。押原神社の境内の並びにその前方の地を明神前と呼んでいます。
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上殿町 押原神社 |
上殿町 鹿沼相互信金のところ |
上殿町 厳島神社 |
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