むかしの村井村
「鹿沼市史資料編 近世2」参考
村井村
西山の麓の丘陵地で東部を小藪川が南流し、この灌漑用水により周辺に水田が開けるが畑作を主とする地帯で、古墳や遺跡が多い。元禄末より二給支配、天保9年には589石余・家数47軒・人数210人
・居酒屋2・むし菓子屋1・麻屋1・古着屋2・大工1とあり鹿沼宿の助郷村であった。
村井村の概要
村高は「慶安郷帳」では393石余、「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに589石余。鹿沼藩領、武蔵岩槻藩領などをへて元禄期(1688〜1704)以降は旗本伊沢氏(195石余)と本田氏(394石余)の二給となり幕末に至る。明和6年(1769)時の家数57軒、人口212人、馬9疋。文政10年(1827)時の家数48軒、人口214人、5軒が農間渡世に携わっていた。文久3年(1863)時の家数42軒、人口213人。鹿沼宿の定助郷。寺院は真言宗一条院(現在廃寺)、鎮守は女体権現(現胸形神社)
一給支配=一村一領主、二給支配=一村二領主、三給支配=一村三領主というように旗本による分給支配地である。
相給=複数の領主下 |