むかしの深岩村
「鹿沼市史資料編 近世1」参考
深岩村
日光山の記録には往古「深谷郷」とみえる。「慶安郷帳」には「深谷村」、田99石余・畑59石余、他に観音領として3石がみえる。天保9年(1838)には家数18軒・人数78人とある。深岩村には白山宮・岩本神社・深谷観音のほか真言宗満照寺があったが明治9年(1876)廃寺となった。
深岩村の概要
村高は「慶安郷帳」では158石余、「元禄郷帳」・「天保郷帳」ともに227石余。鹿沼藩領、武蔵国岩槻藩領などをへて、元禄期(1688〜1704)に旗本仁木氏・秋元氏の相給となった。秋元氏はまもなく旗本本田氏に替わり、以後は幕末まで仁木氏(186石余)・本田氏(37石余)の相給であった。鹿沼宿の定助郷。鎮守は星宮権現で、本田氏知行分の川田・渡辺両家に勧請されたという。真言宗満照寺は幕末期に無住となり、その後廃寺となった。同寺が別当を務めた深岩観音は下野三十三観音のひとつで、観音堂領として朱印地3石を与えられた。
参考
慶安郷帳 1648年
元禄郷帳 1701年
天保郷帳 1834年 |