むかしの上大久保村
「鹿沼市史資料編 近世1」参考
上大久保村
川上は草久村、川下は下大久保村となる。「元禄郷帳」では高355石余、日光領として毎年7月に大和竹15本は・葉竹2本を納めた。嘉永6年から報徳仕法がおこなわれ、慶応4年(1868)起返反別は二町二反余に及んだ。村にある二宮堰は、二宮尊徳の子弥太郎によってつくられたものである。
大久保村の概要
「慶安郷帳」では大久保村とあって上下の区別はなく、寛文年中に、上大久保村と下大久保村に分かれたが、明暦元年から日光神領となった。鹿沼藩領で367石の持高であった。慶安3年(1650)の家数は45軒とある。「元禄郷帳」によると上大久保村は田1石余、畑366石余、下大久保村は畑242石余とある。・・・途中省略・・・・・大久保地内を流れる大芦川を神舟神社の前で堰止めた二宮堰は二宮尊徳の子息弥太郎によってつくられた。
下大久保村の大芦大明神は大芦郷惣郷鎮守として天正年間(1573〜92)に成立したといわれ、寛政11年(1799)正一位大芦大明神となった。また、上大久保には神舟神社があり、古くは星宮大明神と称した。宝永2年(1705)社殿再建、維新に際し同社のある地名の「神舟」を用いて神舟神社とした。
参考
慶安郷帳 1648年
元禄郷帳 1701年
天保郷帳 1834年 |