むかしの下石川村
「鹿沼市史資料編 近世2」参考
下石川村
洪積台地に位置にあり、河川がなく溜池からの用水による稲作が行われたが、畑作を主である。貞享5年(1688)の検地で新畑一一町八反余・石高18石余とされている。天保年間には村高315石余、慶応4年(1868)には家数26軒・人数131人、元禄9年(1696)から板倉知行所で奈佐原宿の助郷村であった。
下石川村の概要
下石川村は、黒川左岸の段丘上に位置しており、上石川村・池之森村・植野村や、現在宇都宮市域の鷲谷村・壬生町域の上田村と境を接している。近世初頭以降宇都宮藩領であったが、貞享2年(1685)に幕府領、元禄期に旗本板倉氏領となり幕末に至る。村高は「慶安郷帳」では田119石余、畑69石余であり、明暦2年(1656)検地帳では田155石余、畑屋敷103石余が名請けされている。寺社は、康平年間(1058〜65)の創建とされる星宮大明神が字宮内にあり、明治2年(1869)に磐裂神社と改称された。村内に寺院はなく、上石川村の永林寺や上田村の不動院、中泉村の中泉寺などの檀家となっている。
慶安郷帳 1648年
元禄郷帳 1701年
天保郷帳 1834年
一給支配=一村一領主、二給支配=一村二領主、三給支配=一村三領主というように旗本による分給支配地である。
相給=複数の領主下 |