むかしの富岡村
「鹿沼市史資料編 近世1」参考
富岡村
行川(黒川支流)沿いに展開する。東は武子村、西は見野村、北は板荷村に接する。「慶安郷帳」には田173石余・畑131石余、天保9年には家数32軒、人数171人を数える。寛政11年には二人の人参御用作人がいる。
富岡村の概要
中世は日光山領の富岡郷をなした。「慶安郷帳」で304石余、「元禄郷帳」で528石余、「天保郷帳」で536石余であった。家数・人数は天保9年(1838)に32軒・171人、慶応3年(1867)には256人・馬28疋を数え、幕末期に急速な人口増加がみられた。村の中央を行川が南流し、村の南部で合流する。村の西部は山陵となっている。行川沿いに水田が開けているが、たびたび洪水の被害を受けた。また、村の東端には日光例幣使街道が通り、すぐ北の板橋・文挟両宿の定助郷村にも指定されていた。主として米と雑穀を生産し、米はその多くを販売した。朝鮮種人参の御用作人も存在し、麻作も広く行われた。村の鎮守である熊野神社は、天徳2年(958)に王子権現として勧請されたと伝え、正和4年(1315)に熊王子大権現と改称、明治2年(1869)に熊野神社と改められた。
参考
慶安郷帳 1648年
元禄郷帳 1701年
天保郷帳 1834年 |