むかしの日光奈良部村
「鹿沼市史資料編 近世2」参考
日光奈良部村
地内の東部寄りに南流する黒川の沖積地で、黒川を灌漑用水とする水田稲作地帯である。もと奈良部一村であったが、「元禄郷帳」に古くは下奈良部と称したとあることから、元禄年間以前に下奈良部から分村したとみられ、元禄末に2給に分け郷となり、村高は184石余、奈佐原宿の助郷村となる。慶応4年の家数25軒人数106人・馬7疋であった。
日光奈良部村の概要
日光奈良部村は、黒川が東部を流れ、東は上奈良部村・下奈良部村、南は奈佐原村、西は樅山村、北は上殿村に囲まれている。「慶安郷帳」に「古下奈良部村」とあることから下奈良部村から分村して成立したと考えられる。元禄9年(1696)日光道中壬生通り奈佐原宿の助郷村となり、勤高184石になっている。元禄11年(1698)は代官伊奈半左衛門の支配であったが、元禄13年(1700)から旗本仁木周防守・旗本村上大学の二給になっている。寺院としては、鹿沼薬王寺の末であった真言宗宝性院があったが、文化年間(1804〜18)に無住無檀となり、明治14年(1881)廃寺となっている。神社は、磐裂神社がある。
慶安郷帳 1648年 元禄郷帳 1701年 天保郷帳 1834年
一給支配=一村一領主、二給支配=一村二領主、三給支配=一村三領主というように旗本による分給支配地である。
相給=複数の領主下 |