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 鹿沼のむかし話 さつき地蔵
1 地蔵堂
鳥居 お堂 お堂
 

昔話
◆「400年も昔、父と娘の巡礼が鹿沼の城にいるお母さんに会いに来たが、城の武士に殺されてしまった。、近くの人達が親子を哀れみ供養したが、いつしか忘れられてしまった。明治、大正のころ、塚のまわりで不思議なことがおこったので、塚のまわりを掘り起こしたところ何体ものお地蔵様がでてきた。土地の持ち主がお堂を建て、地蔵をまつり、サツキを植えて供養した。」というはなしです。
「巡礼の父の名前が三吉というので、殺されて投げ捨てられた川を三吉川との言い伝えもある。」・・・三吉川のいわれがわかりました。

■説明板・・・
●さつき地蔵
巡礼街道の東武日光線の踏切の南に「太田堂」で祀る「さつき地蔵」があり、この地蔵にまつわる哀れな物語がある。石地蔵を安置し、1本のさつきを植えて供養した。このさつきが老木となり「さつき地蔵」と呼ばれるようになった。(三幸町)






出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鹿沼藩(かぬまはん)は、下野国都賀郡鹿沼(現在の栃木県鹿沼市坂田山)に存在した藩。

[編集] 藩史
正保4年(1647年)、小姓組番頭であった朽木稙綱は、鹿沼において5000石を加増され、2万5000石の大名として鹿沼藩を立藩した。しかし慶安2年(1649年)に稙綱は常陸土浦藩に移され、代わって相模国・下総国・常陸国などで1万石を領していた内田正信が5000石加増の1万5000石で入った。正信は慶安4年(1651年)の徳川家光の死去に伴って殉死したが、後を内田正衆が継いだ。正衆が元禄12年(1699年)2月4日に死去した後は内田正偏が継いだ。正偏は享保9年(1724年)10月29日、狂気により妻女を傷つけた罪を咎められて蟄居処分となった。(伝承で、江戸で見初めた町人の妻を鹿沼に連れて帰り、其れを追って尋ねてきた父子を無礼と下の者に斬り捨てさせ、其れから狂気に走るようになった。という言い伝えがある。)家督は長男の内田正親が継ぎ、1万石に減封の上で下総小見川藩に移され、ここに鹿沼藩は廃藩となった。

1724年ころといえば、将軍徳川吉宗の時代、こんなことがネタとなって時代劇がつくられる。暴れん坊将軍が「腹を切れー」と、言うのも無理ないか。