むかしの野沢村
「鹿沼市史資料編 近世2」参考
野沢村
東部の小藪川を灌漑用水とする水田稲作地帯で、南部を流れる思川(小倉川)の合流点にあり、洪水による川欠けなどの災害がたびたびあった。元禄元年(1688)より幕末まで旗本畠山領となる。元禄年間の村高は442石余、天保年間の家数23軒、楡木宿の助郷村であった。
野沢村の概要
寛永12年(1635)から阿部重次領、次いで慶安元年(1648)からは武蔵岩槻藩領、貞享元年(1684)からは下総古河藩領。「元禄郷帳」には旗本畠山氏の知行所とあらわれ、幕末まで同氏が知行した。「慶安郷帳」」には240石余、「元禄郷帳」に442石余、「天保郷帳」も同じく442石余が記載される。村の南境を小倉川が東流する。地理的に当村は金崎宿・金井村など計13か村からなる西方郷に属し、小倉川にこの西方郷13か村が共同で運営する簗をもった。村の鎮守には、天正17年(1589)に栃木町神明宿の神明宮から分霊して創建されたと伝える神明宮がある。ほかには八幡宮、竜神社、星宮があり、この三社は明治43年(1910)に神明宮に合併した。
慶安郷帳 1648年 元禄郷帳 1701年 天保郷帳 1834年
一給支配:一村一領主
二給支配:一村二領主
三給支配:一村三領主というように旗本による分給支配地である。
相給 :複数の領主下 |