●北犬飼
明治二十二年の町村制施行により茂呂、深津、白桑田、上石川、下石川、池ノ森の六ケ村をもって北犬飼村が誕生しました。この地方は古くから犬飼といったようで、日本書紀の安閑天皇の二年(535年)の条に、国々に犬飼部を置く、と誌されてあり、下野国にも犬飼部が置かれたとすると、その歴史は古いものです。建久四年(1193年)に源頼朝が那須野ケ原で狩りを行ったとき、この地で猟犬の飼育がなされたので、犬飼と呼ぶようになったとも伝えられています。正和五年(1316年)の輪王寺の文書の中に、犬飼郷の名が見られます。
●深津・中城
深津は深栖のことで、深は草深いところ、栖は住家(すみか)の意味であり、人里はなれた住家のことです。千渡の上城にたいして深津には中城(なかじょう)があります。宇都宮氏の家臣小林豊後守の築城と伝えられ、西の丸は本丸の西にあたり、現在ここには延命寺があります。小林氏の子孫は代々この地に住み現在に及んでいます。亀和田の深津家の系図を見ると、同家は、小林氏の一族のようです。
●茂呂、前田
茂呂は山、森の意があり、岩舟町にも茂呂の地名があり、毛呂、諸の字を当てているところがあります。前田という地名は、旧名主屋敷付近にある田を呼んでいる所が市内に何ヶ所かあり、これは、名主や豪農の家の前にある田という意です。田の地名は茂呂のほかに千渡、見野、下武子、高谷、磯、亀和田、塩山、日光奈良部、上奈良部、佐目、笹原田等に字名として残っています。「前田は、単に位置を示すに過ぎないものと思われるが、私はもっとその屋敷に祖父より永く伝えられて、屋敷廻りの貴重な耕作という意味が観念として伝承されているものではないかと思っている」と山口恵一郎氏は、著書“開拓と地名”で述べています。
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