黒羽町は、県の北東部にある、人口15,000人余りの町です。古くから、大関氏の城下町として栄えて来ました。幕末の城主、大関増裕は、若くして陸軍奉行、海軍奉行、若年寄となりました。大政奉還の直後、帰藩していて、不可解な死を遂げます。非常に興味を感じる人物です。
元禄2年(1689年)3月27日、芭蕉は「おくの細道」の旅に出発します。そして、4月3日(今の暦では、5月21日です。)黒羽町に到着します。最初に芭蕉が泊まったのが、鹿子畑豊明と言う武士の家で、俳号を翠桃と言います。この翠桃の家に5泊し、更に翠桃の兄で、浄法寺高勝と言う黒羽藩の城代家老の家に8泊します。この高勝の俳号は桃雪で、ともに芭蕉の門弟でした。おそらくは、芭蕉は出発前に連絡をしてあったのだと思います。結局、芭蕉の黒羽町滞在は13泊14日に及び、 「おくの細道」の行程の中では、黒羽町に一番長く逗留しました。
黒羽町では、昭和61年から「芭蕉の里」を、まちづくりのテーマに設定し、「芭蕉の館」のを建設などを進めて来ました。黒羽町には、雲厳寺や大雄寺などの名刹もあり、歴史の町として多くの観光客が訪れています。
余談ですが、芭蕉がおくの細道の旅をしたのは、46歳の時でした。芭蕉と言うと、だいぶ老けた感じがするのですが、今の僕よりも若かったのですね。何となくショックです。(笑)
更に余談ですが、黒羽町の「芭蕉の館」の前に、馬に乗った芭蕉の像があります。ある獣医さんが、当時の馬はこんなにスタイルが良くなかったと言っていました。言われてみると、確かにこの馬はサラブレッドのような感じで、日本の古来からの馬ではないようですね。「野を横に 馬牽きむけよ ほととぎす」と言う芭蕉の句が残っています。この句のイメージで芭蕉像を作ったのかも知れません。
写真は上から
・雲巌寺
・大雄寺
・明王寺