黒磯市は、今年の1月1日から那須塩原市になりました。それまでは、人口約6万人の市で、昭和45年に市制が布かれた、県内で一番若い市でした。
一昨年ブリジストンの工場で大きな火災がありましたが、黒磯市にはブリジストン以外にも大企業の工場も立地され、経済的に大きな飛躍を遂げて来ました。また、黒磯市は、那須温泉や那須高原などの観光地である那須の玄関口にもなっています。
東北新幹線が開通するまでは、那須の御用邸においでになる天皇陛下などは、お召し列車で黒磯の駅に着かれ、そこから御用邸に向かわれました。現在は、新幹線で那須塩原駅に到着されますが、この駅も黒磯市にあります。
明治18年、黒磯まで東北線が開通しました。東北線は、昭和34年、黒磯までが電化されました。 何故なのか分からないのですが、東京の上野から黒磯までは交流の電気を、黒磯以北は直流の電気を使っていたそうです。このため、東北地方に向かう特急電車も必ず黒磯には停車しなければならず、これも市の発展にとっては大きな影響を与えたような気がします。現在でも、黒磯までがJRの「宇都宮線」(愛称なのですが。)で、東京の上野駅までの電車が出ています。
東北線が開通した明治18年には、日本の三大疎水の一つ那須疎水が完成しました。これによって、広大な那須野ヶ原の開拓が本格的に行われるようになりました。明治政府の那須野ヶ原開拓は、当時の政府の有力者に原野を払い下げて行う方式で行われました。
松方正義(総理大臣)、青木周三(外務大臣)、西郷従道(西郷隆盛の弟で海軍大臣)、山縣有朋(総理大臣)、大山巌(陸軍大臣)、品川弥二郎(内務大臣)などなどです。今、考えると、何か偉いさんが美味しい思いをしたようにも取れますが、当時の那須野ヶ原は、荒れた土地で、自然条件等も厳しかったのだと思います。その自然条件を克服するためには、それなりの力のある人でないと無理だったのでしょう。
もちろん、民間人もグループを作って入植しました。現在、那須塩原市役所のある場所は、共墾社と言う地名ですが、これもその民間有志の結成した人の農場があった事に由来する名前です。また、青木と言う地名もあります。これは、青木周三の農場があった場所で、この青木周三の曾孫にあたる方が、ペルーの日本大使館人質事件の時の、青木盛久氏です。青木周三は、ドイツに留学して、ドイツ人女性と結婚した人で、農場の中に、明治21年別荘を、当時の洋風建築の第一人者 松ケ崎萬長(つむなが)に設計を依頼して建設しました。最近まで、放置されていたこの洋館を県が譲り受け、改修して道の駅「明治の森黒磯」として公開しています。青木別邸と呼ばれるこの建物は国の重要文化財にも指定されています。