西那須野町は、県北の人口45,000人余りの大きな町でした。今年の1月1日、黒磯市、塩原町と合併し、那須塩原市になりました。西那須野町は、開拓の町でした。
那須連山を水源とする那珂川と、塩原の山から流れ出す箒川に挟まれた、那須野が原の広大な扇状地の大部分を、西那須野町が占めています。この那須野が原は、江戸時代まで人の住まない広大な原野でした。その那須野ケ原を開拓するため、明治政府が総力を挙げて、那須疎水を完成させます。日本の三大疎水の一つであるこの疎水が開拓に大きな力を発揮します。
明治14年の西那須野町の人口は、後に合併した狩野村を除いて、5戸25人でした。それが、疎水が開削されて、明治45年には、675戸4,107人、昭和元年には1,057戸5,691人と急増しました。那須野が原は、個人での開拓が困難だったため、明治政府の高官達が払い下げを受け、大規模な農園を開いて開拓を行いました。総理大臣だった松方正義、外務大臣だった青木周造、内務大臣だった大山巌、品川弥二郎などです。松方農場の後に、国や県の研究施設があります。その土地を利用して、県では国会移転の候補地にしました。国では、国会で移転の議決を行い、法律まで作って移転を進めようとしましたが、最近では余り話題にもならなくなってしまいました。
面白い話があります。JR西那須野駅を降りると、すぐの所の町名が永田町です。この永田町の命名は、大山巌と西郷従道が農園を開いた時に、彼らが属していた薩摩藩の上屋敷のあった所が東京の永田町で、それから付けた名前だと言う事です。東京の永田町と言えば、政治の中心地ですが、 それが西那須野町に移転するのは百年も前に決まっていたと言う笑い話です。西那須野町には、こうした開拓の歴史を伝える田園風景が今も残っています。この風景を利用して、町では「田園空間博物館」を建設しました。博物館は、この田園風景すべてであり、そこを巡って地域全体で生きた展示を行おうと言うものです。僕も、ノンビリとカメラをぶら下げて歩いてみようかと思っています。